シンポジウム「横沢入の戦争遺跡−その現状と保存・活用」

  伊奈石の会は昨年度、横沢入の戦争遺跡(横穴式地下壕と「戦車橋」)の調査・研究に取り組み、その成果を昨年(2000年)11月25日に五日市ァインラザで行ったシンポジウム「横沢入の戦争遺跡−その現状と保存・活用」の場で発表しました。                                     
  シンポジウムの前半は会員の唐澤慶行さんと山梨学院大学考古学研究会の小笠原裕介さん、吉住和人さんによる調査結果の報告でしたが、当会会誌『伊奈石』の第4号別冊「横沢入の戦争遺跡調査報告」の内容と重複しますので括隘し、ここでは、シンポジウムの後半に行われた講演とパネルディスカッション○横沢入の横穴式地下壕−浅川地下壕と比較して                               斉藤 勉氏(浅川地下壕の保存を進める会副会長)     ○現代に生きる戦争遺跡                             
             十菱駿武氏(文化財保存全国協議会代表委員・当会顧問)  
○パネルディスカッション「横沢入の自然と歴史遺産をどう生かすか」        
 −以上について収録し、お伝えします。                      

      横沢入の横穴式地下壕−浅川地下壕と比較して

                斉藤 勉氏(浅川地下壕の保存を進める会副会長)
 こんにちは。昭和十年代以降、急速に軍事施設あるいは軍事工場ができていくんですが、昭和19年の秋以降それらが周辺の地方、多摩だとか山梨、埼玉に疎開して移ります。もちろんこれは空襲との関連が強いわけですが、一番最初にそういった動きをしたのが中島飛行機の武蔵製作所でして、現在の武蔵野市の市役所とかNTTの電気通信研究所とかがあるところです。ここが19年の11月24日に空襲を受けた後あちこちに疎開するんですが、その中心が中島飛行機の浅川地下工場です。浅川地下壕は、その中に飛行機を隠しておくとか部品を置いておくという施設ではなくて、その中で製造をするための施設です。横沢入の地下壕の場合はあくまで倉庫という性格ですが、浅川の場合は完全な製造を目的にした施設ということです。
 私も今回の横沢入の調査には一日関わって見てきたんですが、まず、掘削ですね。浅川地下壕の掘削は掘削の専門会社、これは佐藤工業と言いまして、現在もある会社です。もともとは富山の方で明治の初めの頃にできた掘削を専門にやる会社でして、その会社が下請けを連れてきて掘ったものです。それに対して、横沢入の地下壕はそこまで本格的なことをやっていないんじゃないか、と思います。もちろん、機械を使っている感じはするんですが、大きさを見てもそれほどではない。浅川地下壕の場合はまっすぐ掘ってからそれに対してさらに直角に曲がって中が格子状になってます。そういうわけで精密に測量されて作られてるんですが、横沢入の場合はあくまでも「倉庫」という感じで、そこまではやっていないんじゃないか。ただやはり、こういった地下壕は八王子市の東南部にもたくさんありますし、町田でも市史ですとか報告書をみると尾根伝いにずっとあるようですね。読売ランドの中にもこれと同じような、戦車を隠したような壕はおそらく残っていますので、横沢入だけでなく本土決戦に備えて資材を保管して準備した地下壕について調査をしていく必要があるだろうと思っています。


     現代に生きる戦争遺跡

     十菱駿武氏(山梨学院大学教授・戦争遺跡全国ネット代表・伊奈石の会顧問)
 私は高校の教科書の仕事もしてまして、その教科書の第 1ページのところに、やむなく私は「日本の歴史は今から60万年前の上高森遺跡から始まる」と書いたんですが、かの藤村新一さんのために、どうも上高森全体、特に、今のところ彼が入ったのは1998年の上高森遺跡とそうしん不動坂遺跡で石器を自分が埋めたと言ってるんですが、同じようなものが1995年の上高森遺跡でやはり60万年前の地層から石器が14個出ていて、講談社の本などでは原人がそれをP型とU型に配色を考えて並べた、そのPの方が男でUの方が女で、性器を模したものであって原人の精神文化を豊かにするものであろう、ということを岡村さんと言う文化庁調査官をやっている人が書いているんですが、どうもこれも嘘っぽいんですね。今、日本考古学協会で事実を究明することをやってますが、私はその被害者でもある、ということなんです。
 さて、戦争遺跡ですが、「戦争遺跡」とは明治以降、日清日露戦争を含む近代に、日本が日本の国内及び国外に残した戦争の跡、と言うことです。資料に入れておきましたが(図 )、これだけ多くの戦争遺跡が多摩にはあります。八王子ですと、寒川にあった相模の海軍工廠が横沢の南に当たる八王子の上川にできつつありました。あきる野地域については、今までは列車襲撃事件の跡が東秋留の駅の近くにあったんですが、これに加えて、今回の伊奈石の会の掘り起こしによって、引田の資材倉庫というものがあった、さらに増戸の駅の北側にも資材倉庫があった、という話まで出てきました。地下壕は全部で39という非常に規模の大きい地下壕であり、東部64部隊が作ったということと、何のためにという性格については、陸軍立川航空廠という軍の東部本部に属する直属の部隊が資材を再格納するための格納用の壕であろう、ということなんですが、しかし戦車を隠蔽するための壕であった可能性もあります。この点につきましては戦車壕の形を図 に示してあります。横浜の港北区の茅ヶ崎城跡という現在の港北ニュータウン南駅のすぐ近くにある中世の城跡がありまして、そこで横浜市の埋蔵文化財センターが調査をしましてその図のような戦車壕が見つかっています。ここでは傾斜面に対して上がり気味に壕ができていて、一部地下式と言うか、洞窟の部分と前庭部と言いますか前に開いた部分があります。その床に幅が30cm位の溝が横に八本ほどあって、さらに縦方向にも中央に細い溝があります。そして壕の中から松の丸太材や陸軍の星マークのあるガラス瓶、近代の徳利とか皿が出ています。この壕については戦車部隊が戦車を格納するために作った壕であると地元では言っています。八本の横の溝は排水溝だと言うんですが、どうもそうじゃない。この壕は横沢入の地下壕と同じく斜面を上がり気味に作られている、そしてローム層で滑りやすい地盤ですから、キャタピラで入る場合にもキャタピラを止める物が必要だったと思うんです。だから松材を横方向に埋めて、枕木のようにキャタピラを止めていたんじゃないかと思うんです。縦方向の溝は排水溝です。本土決戦作戦部隊の第53軍という横浜・川崎そして八王子・町田にかけての地域で、相模湾方面から米軍が上陸してきた時にこれを迎え撃つ、そういう一億玉砕のための部隊のうち、いざ敵が来たという時に戦車をここに入れて砲身だけを外に向けて、南側あるいは丘陵一帯から攻めてくる敵を迎え撃つために戦車を隠蔽した壕なのではないか、と思うんです。
 もう一つ調査されている例ですが、これは静岡県の浜北市にある戦車用掩体壕というのを伊藤さんという戦跡考古学協会の方が調査されています(図  )。こういうように半地下式に掘っておいて両側に土塁を積んで、さらに回りには木がありますから上空から見るとそこに戦車が隠れていることが分からないようになっています。この場合は名古屋方面から敵が上がってきた時に砲身を出して発射することができる。戦車を隠蔽するための壕にはこれらのタイプがあったわけです。そうしますと、横沢入の壕もこれらと似たところがありますから、戦車の部品ではなくて戦車そのものを入れたということも可能性としてはあります。もしそうしますと、横沢入でも斜面が奥へ上がっていますから、キャタピラが滑らないための溝が掘られているんじゃないかと思うんですね。横沢入の壕も部品だけではなくて戦車そのものを入れるために掘られたかどうか、というのは今後の発掘に待つ部分が多いということです。「戦車橋」については牽引車、大砲を運ぶための今でいうトラクターみたいな物のシャーシー、車体の部分であるということが分かっています。

 まだまだ十分に謎解きがされていませんが、横沢入の地下壕が35、そして「戦車橋」が二つ。さらにかつては横沢入の入り口の信光院橋のところにも戦車があったという聞き取りをしていますから、三か所の牽引車を置いた場所があり、その中の少なくとも二つ残っている。そういうわけで貴重な近代の遺跡であり、あきる野五日市地域の近代を伝える貴重な文化財・文化遺産だと思います。

 戦争遺跡という近代の遺跡については、1995年の文化財保護法の指定基準の拡大によって、それまでは明治初年代までとしていた遺跡や有形文化財が指定の文化財、あるいは登録の文化財ということに広げられることになりました。この結果、現在国史跡・世界遺産になっています原爆ドームをはじめ10か所の戦争遺跡が、まだたった10か所ですけれど、指定遺跡・指定の有形文化財になっています。そのうち二つを紹介しますが、一つは大分県宇佐市にあります城井1号掩体壕というものです。ここは宇佐の海軍基地がありましてその航空隊の基地に接した部分に滑走路や変電所の建物やあるいは掩体壕という飛行機を格納隠蔽するための地上のドーム型の施設がありました。で、この宇佐市という場所は、全国ではじめて「文化財保護宣言都市」という宣言をしていることもありまして、こうした近代の遺跡の一つを95年の三月に市史跡として指定して保存し、案内版なども着けて整備しています。ここでは地元の「豊の国宇佐市塾」と宇佐市の教育委員会の文化財担当者が一緒になって宇佐海軍航空隊についての調査をしまして、二度と戦争を繰り返さないための平和への提唱としてこの場所を整備しているわけです。で、現地へ行ってみますと、他にも10か所以上の場所が、農家の納屋になったり一部は築山みたいになったりして残されています。大きい物は30から40m、小さな物でも10mの大きさの、半円形で一部コンクリートでできた掩体壕が各地に残っています。宇佐市ではこれらの掩体壕や落下傘の整備所あるいは司令の地下壕を調査をしながらさらに史跡として保存整備していきたいということを積極的に言っています。宇佐市は「掩体壕の見える町」として近代の戦争遺跡を観光資源として、あるいは市の歴史的な証人として整備しているわけです。

 もう一つ、近いところで東大和市に日立航空機立川工場の変電所があります。この東大和という地域は、軍都であった立川の周辺部に当たっていて日立航空機立川発動機工場というのができました。この施設の一環として現在まで残っているものが一つは給水塔、一つは発動機工場です。地元の「戦争と郷土史研究会」−市の公民館学習講座で学習をした主婦グループ−が地元東大和市に残る小松ゼノア(株)の工場の一角にあった変電所を、多摩の戦争遺跡の代表であるということで市に働きかけまして、現在市の史跡になっています。これも史跡の指定基準の拡大の結果です。で、変電所は図  にありますように2階建てのコンクリート造りで、南側の部分はP2という艦載機による機銃掃射の跡、弾痕が数百個残されています。しかし、給水塔の方は小松ゼノアという会社そのものが移転をするために撤去して平地にしたいということで現在危機にあります。東京都では、まだこの二か所しか史跡に指定されていません。浅川地下壕もまだ史跡にはなっていません。

 府中の白糸台に陸軍調布飛行場の掩体壕があるんですね。現在三つあるんですが、そのうちの一つは、そのセメントの構造物が地元の人々にとって邪魔で土地を利用しにくいということで潰されて駐車場になってしまいました。調布飛行場の入り口にあった給水塔も去年の12月に撤去されてしまいました。まだまだ近代の遺跡について行政も所有者も認識が十分でありませんし、また戦争の跡ということで、忌まわしい負の遺産であるという視点から、邪魔なものでありあまり思い出したくないことであるから撤去しようという動きが全体としてはあります。私たち文化財を保存しようという立場からは、こうした近代の遺跡についても現状残っているものについてはそれぞれの地域の記録として、文化遺産として保存していってほしいと思います。
 さて、パネルディスカッションのテーマにも関わりますが、伊奈石の会の会誌二号に横沢入の里山ミュージアム構想というものをヨーロッパや日本各地のエコミュージアムと対比する中で提案しています。また、すでに「五日市の自然を大切にするまちづくりを考える会」が「横沢入ふれあいの里構想」というのを出しております。長年懸案になってきたJR東日本による宅造計画が今年九月に完全に白紙撤回されまして、では、今後どうやって保全を進めていくかということについてあきる野市東京都とともに協議を進めていくことが具体的な問題になってきているわけです。その場合の、一つの素材として、私たち伊奈石の会では、里山を保全してその中の歴史遺産を活用しながら、こうしたエコミュージアムつまり地域まるごと博物館ができるんじゃないかという構想を出しています。この中では、「戦車橋」や地下壕の位置も地図の中に入れて、これらの場所の意味を知らせて価値付けをし、自然観察や歴史散策を楽しむ人たちが伊奈石石切場や天竺山の三内神社とともに巡り歩いて、そしてその中で農園やホタルやトンボ池や谷戸田や、水車小屋は作れるかどうか分かりませんが、伊奈石の臼を使った粉ひき小屋なども使って、この横沢入65haの中で多摩の里山の豊かさと歴史とを勉強してもらいたいと思います。
 横沢入については、伊奈石石切場遺跡と大悲願寺の横の東平遺跡−これは縄文中期の遺跡ですが−の二つが周知の遺跡です。こうした5000年前の遺跡と 600 〜100 年前の中世・近世の遺跡に加えて55年前の「戦車橋」や地下壕があり、これらについては地元の住民
の皆さんの記憶がまだ生きています。ですから、現代の人々に直接つながりのない中世・近世の遺跡に近代の戦争遺跡が加わって大きな歴史の流れを現代に伝えてくれるものとなる、と私たちは位置付けていきたいと思います。今後、里山の保全とエコミュージアムをどう実
現していくかについてはこの後のディスカッションで深めていければ、と思います。

司 会  横沢入住宅開発計画がなくなった今、横沢入の価値を見直してそれを積極的     に生かしていこうということをあきる野市や都に提言をしていけるようなパネルディスカッションにしていきたいと思います。今日話していただくのは五人の方たちですが、三人の方にはすでにお話いただいています。ここで田中さん、中野さんにあらたに加わっていただきますが、それぞれ少しお話いただいてからディスカッションに入っていきたいと思います。

 まず、里山遊志の田中 希さんをご紹介します。里山を保全していくに当たって様々な生物調査を地道に続けてこられて、その上に立って約一年前から具体的な保全作業に取り組んでいらっしゃいます。おそらく最も長時間現地にいる人で、横沢入に来たことのある人は一度は彼に会っているはずです。田中さんの本業はビデオカメラマンで、NHK・BSの「トレッキング紀行」のヨーロッパアルプスやカナディアンロッキーなどの撮影あるいは技術を手掛けていらっしゃいます。田中さんからはどのようなコンセプトで保全を考えているのか話していただきます。

田 中  ご紹介にあずかりました田中です。「里山遊志」はもともと二年前に私が代     表をしていたオオタカプロジェクト、そしてムササビの会や野鳥の会の方などが集まって、基本的に「あらたな里山の維持管理手法の確率をめざして」ということで作った組織です。以来、横沢入の生物相の調査と維持管理手法の調査を中心に行ってきました。そして、一年くらい前から、地権者との協議の中でやれる範囲は限られていますが、実際の維持管理作業に入っているわけです。で、ここでは私たちがなぜ里山の環境を戻そうとしているのか、ということをお話ししたいと思います。

 里山環境維持の目的ということで三つ考えてみました。一つは多様な生物が存在する環境資源としての価値。そして文化資源としての価値。生活資源としての価値。この三つを考えています。多様な生物が存在する環境資源としての価値ということは、言い換えれば多くの生物種が生息する多様な環境ということですね。もう一つは希少な生物の生息環境ということです。横沢入にはオオタカやヤマトセンブリをはじめとする希少生物が住んでいます。次に歴史・文化資源ということですが、これは無形も含めて。横沢入の場合には600 年あるいはそれ以上もの間農作業が行われ続けて作られた形なんですね。そうした里山の形自体が歴史的な価値のあるものだと私は思います。農業目的で続けられてきた管理作業は土地土地で形態が違っていますし、私はNさんの手伝いをづっとやらせていただいたんですが、他の地域とは違う独特の手法をいろいろ学ぶことができました。それと景観から来る「心のふるさと」、都会生活者にとってのレクリエーションの場。教育教材として子供たちの想像力と感性を育てる場としての価値などがあるんじゃないかと思います。そして生産資源としての価値。これは農産物と薪炭ですが、さらに山菜、薬草、キノコなどの山の幸を与えてくれる場として機能いているんじゃないかと思います。それから日常の中でのコミュニケーションの場として、例えば「井戸端会議」という言葉がありますけれど、そういう場でもあったのではないでしょうか。 これらの中で、多様な生物の生息環境ということについてお話ししたいんですが、普通、原始の森というのは「極相林」という言い方をします。それに対して里山の考え方ですが、二次遷移−これは土砂崩れや山火事などの自然災害によって破壊された環境の中から段階的に極相林に向かって回復していく状態ですが−里山の環境はそれに良く似ているという考え方ができると思います。自然災害によって破壊されたところには最初に乾性低茎草地が形成されます。乾いたところで生えてくるイネ科やマメ科の低い草のことですね。ここから次の段階に移っていくんですけれど、里山では定期的な草刈りによって高い草に変わっていく段階を押さえています。草刈りという物理的な力によって農道とか畔などの部分は乾性低茎草地の段階に押さえられているということです。次の高茎の草地が放置されていくと落葉の広葉樹が入ってきてやがて雑木林になり、さらに放っておけばモミとかツガなどの針葉樹、シイ、カシなどの照葉樹−陰樹と言って日陰に生える植物が入ってきてさらに変わっていきます。そこで下草刈りをして陰樹が入るのを防ぎます。それから自然災害によって水たまり−開放水面ができます。そこに沈水性の植物が入り、それが半沈水性の植物に移行し、湿地状態になってさらに湿性の広葉樹林隊に移行し、下が乾いていって雑木林から極相林に移行する−だから「極相林」と言うんですが、最初の開放水面の状態をとどめたのが溜め池であり、もう少し進行して抽水性の植物が入った段階は田んぼ作りの作業によってそういった段階が維持されていると思います。こういった一つ一つの場所−溜め池、水路、田んぼ面、畔、などがそれぞれの遷移段階に応じた植性環境を形成して一定の範囲の中にパッチ状に存在しているので、里山の生物相は多様であると言えるかと思います。だから私たちとしては、生物面から里山の復元と言った場合、今の横沢入はこうした環境区分帯がかなり壊れてきていますので、田んぼ環境が崩壊する過程で現れる生物もかなり出てきていますから、こうした生物にも配慮をしながら環境区分帯一つ一つを維持していく必要があると思っています。そこで、昔の航空写真などで本来の畔や水路の配置を確認し、手法としてはなるべく昔から横沢入で行われてきた昔ながらの作業形態を地元の人に聞きながら、少しづつ作業をはじめているところです。

司 会  田中さん、どうもありがとうございました。次にムササビの会の代表の中野     勝さんをご紹介します。ムササビの会は横沢入住宅開発計画に反対して、いろいろな会場で何回かの横沢入の自然の素晴らしさを訴える展示会を開催したり、あるいはヨコサワイリ・マップを発行し、これらを通して横沢入を知ったという方も多いと思います。こうしたことから最近は、他の地域から自然愛好家のグループが横沢入に来るときに、たいていムササビの会に問い合わせが来る、というセンター的な役割を担っている会です。その中で中野さんは、行政や地権者との折衝をづっと続けてこられた方ですので、今問題になっている部分ということについても最も明るい方だと思います。最近の経過と課題ということで話していただきたいと思います。

中 野  ムササビの会は、横沢入の現状について知りたいと思う方、あるいは知って     いる方にどんどん情報を流す、そういうインフォメーション・センターみたいな形をずっと取ってきております。特に、横沢入に何らかの形で関わりたいという方の窓口になっております。あちこちのシンポジウムに出没いたしまして、横沢入がここにありますよということを数年間言い続けてきましたので、全国ブランドになってきました。びっくりするんですが、今年は彦根市の中学生が修学旅行を兼ねて横沢入に来ていますし、日本だけのことではありませんで、韓国の学生の団体が八月には来ています。ネパールの留学生も来ていまして、そういう外国の人も我々が日本の原風景だなぁと感じるのと同じように感動して帰っていっております。外国の人にとっても「心のふるさと」になりえる環境なんだろうと…。
 ちょっと話が飛びました。この間の経緯ですが、去年の 9月 1日に−というのは10月にちょうど選挙がありましたので、今なら会ってくれるだろうと−今話した田中希君といっしょに田中市長に会いまして、1時間だけ時間を取ってもらいまして、その時の感触はですね「横沢入?あそこは君ダメだよ。絶対住宅開発するんだから」という感じでした。それから、我々に助成金を出していただいているWWF(世界自然保護基金)という団体があるんですけれども、JR東日本がその法人会員になっているんです。法人会員として年間20万円を会費としてJR東日本は支払っているんですけれども、何のことはない助成金としてその半分は我々のところに来ているという現状をWWFの担当者は知ったわけですね。ここでパイプができたわけで、情報交換ができるようになったわけです。そして去年の11月現在の話で、来年の 3月にJRとしては態度を決めなきゃいけないが、方向としては住宅開発はもう無理だろう、という話が聞こえてきたわけです。ところが、3 月になっても何の音沙汰もありませんで、で 4月にあきる野市としてのマスタープランの素案ができたということで市の公聴会があったんですが、その席上で都市整備部の田辺さんという部長さんが「住宅開発は見直しをする可能性がある」ということを言ったんです。そこで会見を申し込んだところが、そこでも田辺さんは「横沢入は大きく変わる」と言う。そして、 5月9 日にはある筋から「実は明日、横沢入に都知事が来るよ」という情報が入ったんです。都知事の話は一般紙にも大きく掲載されましたからご存じだと思うんですが、「横沢入は大きく変わるよ」というのは都知事が来ることだったんですね。その後ある市議会議員から 9月の中頃に発表がある、という話がありまして、そして26日にご存知のような発表があった。これが経過ですね。
 まあ、JR東日本とあきる野市にしてみれば、言ってみれば 180度の政策の転換をしたわけですから、我々の率直な気持ちとして敬意を表したいと思っております。感謝状を出したいくらいのものなんですけれども、田中市長曰く「断腸の思いで」決断を下したと言われてますから、おそらくは相当悔しい思いをされてこの決断に踏み切ったと思います。今後はそのへんのところを斟酌しながらですね、進めていかなきゃならない。実は内々であきる野市との話し合いを始めていますけれども、地元の地権者に対する説明が終わった段階から、例えば「横沢入保全協議会」というような名称の我々自然保護団体を含めた今後の話し合いの場を作っていく方向で進んでいます。言うなればこれまで 180度違った立場だった人たちと一緒に話し合って何が生まれるのか、ということもあるわけですから、お互いの立場を尊重しながら話し合いに入っていかなきゃいけないのかな、と思っております。


司 会  中野さんの方から今後の具体的な動きまで踏み込んで話していただきました。     さて、これからディスカッションということで、横沢入の自然と歴史遺産をどう生かしていくのか、について話し合っていきたいと思いますが、まずそのための土台として
@横沢入の、他の地域とは違った重要な価値について再確認し 次にAそれぞれの団体が考える保全・活用のイメージの違いを出し合い、B実際に保全を進めていく上での人的なあるいは経済的な問題などの問題点を整理し、最後にC今後どうやって様々な市民や団体の気持ちをまとめながら進めていけるのか、という方向性を探っていきたいと思います。まず、「横沢入の価値」の再確認ということで、歴史遺産ということから伊奈石の会の唐澤さんからお願いします。

唐 澤  横沢入の住宅開発についてのJR東日本の検討委員会の中で我々が言ってき     た(〓1994自然環境調査検討委員会・1995土地利用検討委員会に唐澤氏は当時の「五日市の自然を大切にするまちづくりを考える会」世話人として参加。伊奈石の会としてではありません。)エコ・ミュージアムの考え方では、町全体の中での、あるいは秋川谷の中での横沢入の価値ということから出発して、そしてその横沢入の特性を生かした「里山ミュージアム」ということなんですけれども、歴史ということから言えば石井先生が「渋谷が村だった頃五日市はすでに町だった」とおっしゃってるように文化的にもこの地域は古い歴史があります。また五日市地区は、人の歴史以前により長いスパンでの歴史=地質学の上からも重要な場所と言われています。

 横沢入に絞って言えば我々が関わっている伊奈石の遺跡ということになりますが、横沢入と農業生産や森林を通して関わってきた人々の暮らしの歴史−人々の暮らしを抜きにしての歴史というのはあり得ないわけですが−人々の暮らしの歴史がとりもなおさず里山の価値であって、この地域ではそれが伊奈石と結びついて、大悲願寺の悲願寺文書などに残されているのだと思います。

司 会  ありがとうございました。横沢入を中心にしてこの地域が動いていた時代と     いうものがおそらくあるはずで、伊奈石が最大の地場産業だった時代があるということが、この地域の特有の歴史的な面だと思うんですけれども、そのへんについて語っていただきました。自然の方から生物種という面ではどうでしょうか。

田 中  地形的な影響があるかと思うのですが、非常に入り口の狭く丘陵に囲まれた     谷戸であって周囲から隔絶されているため、他にあまりいないけれども横沢入にはたくさんいるという種がいます。それから地元の人に聞くと昔から農薬などもあまり使っていなかったようですし、大型機械も入っていないですから、他には少なくて横沢入には多いとか、回りにいないのにポーンと離れて横沢入だけにいるとかいう種がいます。代表的なものでは30年ぶりに日本でははじめて発見されたヤマトセンブリですね。それからホトケドジョウ、シュレーゲルアオガエル。鳥類ではオオタカ。そういう生息が限定された種がいるということと、外来種が少ないということが言えます。もう一つの特徴として、早い段階で放棄された田んぼがあってそこまで進んでいない中間があって、というように複雑な状態が形成されてまして、それぞれを生息域とする生物がいる。ヤマトセンブリもそうなんですけれど、あれはヤナギの花粉を食べて過ごしますんで、きちんと管理された田んぼではなくて遷移の過程で入って来た種だと思います。あと冬鳥の類い、ホオジロだとかクイナの類いはきちんと管理された里山ではなくてある程度ヤブが形成されてきた状態にそういった野鳥種が入ってきますから、そのあたりが横沢入の生物種の特徴だと思います。

中 野  全然違った視点から話したいと思います。冬場に横沢入に行くと野鳥の会の     人くらいしかお目にかからないんですが、 2月頃ですと地面の表面は完全に凍っているんですが、谷戸の上の方に行くと凍っていないんですね。奥の方に行くと青々とした藻とかが繁っているような環境がある。要するに凍りつかないような湧水が地面の下から湧き出している部分があって水温度が高いんだと思うんですね。で、生物が一番生きにくいのは冬だと思うんですが、横沢入の場合、冬場に過ごしやすい環境があるんだろう、と思っているんです。

 それから60万年前とは言いませんが、最初に人間が住もうと思う所はどんな場所か、と考えてみますと、まず水と食べ物が豊かでなければいけない。そういうことから言うと横沢入は平地と山地のちょうど境界になりまして、両方の植生があって水が湧き出している。そういう所にはおそらく早くから人間が住みやすかったのではないか。だから価値ということで言えば、単に自然が豊かということでだけではなくて、人間にとっても良い環境だったんじゃないかと思っているわけです。

司 会  横沢入に行くとほっとしますけれども、今中野さんがおっしゃったようなこ     ともあるのかも知れません。次に、横沢入の自然環境や歴史遺産をこれからどう生かすかということに話を進めて行きたいと思います。斉藤先生は八王子で浅川地下壕の保存にずっと関わっていらっしゃいますが、遺跡を生かすということについてお考えをお聞かせ下さい。

斉 藤  この前(横沢入の戦争遺跡調査の日)はじめて横沢入に行きまして、びっく     りしたと言うか、分かったのは、あぁ家がないんだということなんですね。浅川ですと壕の入り口に民家がありますし、民家の方にお願いして断らないと中に入れないんです。「保全を進める会」の運動をしていますと会の運動自体に対する住民の反発もあります。住宅地の下に地下壕がありますので、水道工事をやっていたら突然そこが抜けて地下壕が出て来たなんてこともありまして、今年に入りましても玄関先にいきなり大きな穴が開いてそこに洗濯機が落ちていたなんてこともありますので、遺跡が民家の近くにあることによって様々な弊害が生まれているんですね。そこへいくと松代の大本営などは入り口に家はありますけれども理解が得られ易いと思いますし、横沢入などは多くの人のハイキングコースになっているようですし、住民の生活に関わっていないというか独立していますから、いろんな意味での選択肢があるんじゃないかと私は考えています。浅川の方では地下壕を全部埋めてしまえというようなへんな請願が出てしまうこともありますし、その点、横沢入は一つのモデルケースとしてやっていけるんじゃないかと思います。


司 会  ありがとうございました。開発計画と用地買収によってこの10年間住民が横     沢入から切り離されて来たことが、かえって今後に取り組みやすい状況を作ってきた側面もある、ということかと思います。十菱先生、遺跡を生かすということについてお話し下さい。


十 菱  横沢入の歴史遺産としての価値としては、第一に、この横沢入という沢地は     数十万年あるいは数百万年の間のいずれかの時点にできた活断層の場所であって、少なくとも四本の活断層があったために伊奈石の地層も横ずれになっていて、そしてその断層の一つが横沢川の流路になっている。それによってその地層の部分が落ち込んで今の沢地が出来上がったという自然の変化によってできた沢地である、という点が一点。もう一つは、この土地が大悲願寺という中世からの大きな寺院の持ち山としてずっと維持されてきた。分割されないで寺領の畑や田んぼとして利用されてきたために近代まで一括して保存されてきた、ということがあります。

 三番目に、この場所に伊奈石という伊奈臼を作った石の石切場の跡があって、昭和の初期まで五日市線の線路(敷石)などを作るためにも使われた多摩の産業遺跡の一つであって、石切場遺跡として東日本最大の遺跡であるということです。石切場の比較で言いますと、伊奈石と同じ時代で七沢石という石が多摩にはかなりあります。ネズミ色でそこに黒い鉱物が入った石で、伊奈石と同じように江戸時代の後期を中心とした時代に墓石などにして使われているんですが、神奈川県厚木市及び伊勢原町にその石切場があります。それから群馬県笠懸町に天神山石の石切場。そして伊豆に残る伊豆石の石切場。それらと対比しても東日本最大規模であって、周知の遺跡として東京都遺跡地図にも載っていますが、十分にあきる野市指定史跡あるいは東京都指定の史跡としての価値を持つものだと思います。戦争遺跡についてもあきる野市の戦争の記憶を伝える場所として史跡になり得る場所だと思うんです。ですから、歴史・文化遺産と自然環境両方が保全されている西多摩最大の非常に稀有な場所であると思います。そこで、秋川流域のテリトリーの中で住民と行政が一緒になった地域まるごと博物館を作っていこうというときに、中心になり得る資格を持った場所だろうと思うんです。

 で、エコミュージアムというものには、遺産があるということとまとまったテリトリーがあるということと同時に、住民が企画に参加をして自然や文化遺産を保護し継承していこうとする活動が必要です。横沢入には伊奈石の会のような団体をはじめ様々な自然保護団体が関わっていて歴史学習や自然観察会や調査などの活動を行っています。また、かつての地主であった住民の方々や今回の戦争遺跡の聞き取り調査を通して証言をいただいた地域の方々が横沢入に非常に愛着を持っていて、近代の歴史の中で横沢入がどのように利用されてきたかということを積極的に話して下さいました。今後、地域の記憶を21世紀に伝えていく住民の、継承者としての役割を掘り起こしていくことができるだろうと思います。四番目のエコミュージアムの要件としては教育と研究ということがあります。この点では既に地質学、地理学、生態学、生物学、考古学、あるいは歴史学、郷土史、そして今回の戦車橋の調査においては産業考古学の分野の方も調査に加わっていまして、そういう非常に広い範囲の研究者の研究によって横沢入の価値の学問的な裏付けをさらに発展させることができるだろうと思います。

 そうすると問題は、この場所を持っている土地所有者の皆さんがこういう里山保全の方向に同意をしていただく、ということが必要です。横沢入の85%の土地はJR東日本が持っていますが、JR東日本としては赤字をできるだけ押さえるためにも何とか東京都に買ってほしい。一方で東京都の方に予算は無いし新しい財政投資はできないということになっています。しかし、東京都の環境保全局の方では、新しい自然保護条例の里山保全地区という指定の候補にこの横沢入を考えているということがありますから、東京都の環境行政やあきる野市が積極的に加わっていただけるという可能性もあります。それを踏まえて、横沢入に関係する研究者と自然保護団体とそして住民、地権者などが一致して管理者委員会というか利用者委員会というか里山保全あるいはエコミュージアムの具体的な実現に向けて将来に渡って関わっていく団体を立ち上げていって行政と協力して進んで行ければかなり具体性が出てくるだろうと思います。そういう意味で、今回のシンポジウムに参加していただいている皆さんが積極的に横沢入の価値を伝える語り部になっていただくという活動が大事じゃないか、と思います。行政や研究者だけではできない、それを地域のみなさんが、例えば地下壕の場所で戦争体験について話をして下さるとか、伊奈石の臼の使い方や昔の田んぼはどうやって作っていたか、そういう地域の記憶を地域の子供たちや横沢入を訪れる人々に伝えていくソフトの面での発展につなげていければと思います。


司 会  ありがとうございました。エコミュージアム・地域まるごと博物館の考え方     を示していただきました。町ぐるみで同じ方向を向いて取り組んで行かなければならないことだと思います。前途多難な部分もあると思うんですが、その前途多難な部分と、そしてそれをどう克服していくかという点を中野さんにお願いしたいと思います。


中 野  私はムササビの会の代表をやっていますけれども、実は横沢入に関わりだし     たのは97年位からなんですね。私が代表になる以前からムササビの会はあって観察会などをやっていまして、その観察会に参加したことがきっかけでのめり込んでしまったわけなんです。それ以来、横沢入に関わる人たちの様子を眺めていたんですが、多くの人は横沢入の様々な要素の内の一部の要素について集中的に関心を持っておられる。問題は、興味の対象がそれぞれ違ってくるとなると立場も違ってくるわけで、そういう人たちが同じテーブルに座ってうまく話ができるのかなというのが今ひっ掛かりになっています。十分なコミュニケーションが取れれば解決していく問題だろうとは思います。一番大事なことは、今後どういう利用をしていくのかということについて詰めることができるのかどうかだと思います。次に、現実的に経済的な面での裏付けができるか、ということだと思います。理想を掲げることはできても現実にお金が集まらなければ駄目だ、という話になって結果的には計画倒れということがあり得るわけですから。そのためにどういう流れを作っていくか。私としても考えていることはあるんですが…非常に前途多難ではあります。

 昨日たまたま飲み屋であった人、この人は伊奈の人なんですが今は所沢に住んでいて最近の横沢入のことは知らなかったんで、実は 9月の26日に横沢入の住宅開発は無くなったんだよという話をしたら涙を流して喜んでいました。この方は62歳で、増戸小学校増戸中学校を卒業して、子供の頃には横沢入で文字通りウサギを追いかけていた、という話をして下さいました。そういう横沢入を愛している地元の人たちがたくさんいる。一方で、私もそうですが、横沢入に関わっている多くの人は部外者というかここで生まれ育った者ではないですね。十菱先生は八王子ですし、田中君は高尾(八王子)の人間ですから。そういう違いはありますけれども、横沢入に思いを持っている者が意見をいえる場、意見を聞き入れることができる場というものを、とにかく作っていかなきゃいけないんじゃないか、と思っています。その中で、時間をかけながら十分な論議を尽くしながら優先順位をつけて順番にやっていく、ということだろうと思います。そこで大事なことは、議論の経緯は公開して密室でやらないという原則は守らなきゃいけない。そういう仕組みをまず作る必要があると思っています。


田 中  大きな問題としては十菱先生がおっしゃった公有地化の問題と、どれだけ住     民が企画に入っていけるか、利用できるかという二つの問題があるだけで、それほどむずかしくないんじゃないかと思っているんですね。お金の問題で言えば私たちがお金を持っているわけじゃないですし、どれだけ行政にアピールできるかだと思います。地域が活性化していくことが一番重要なことで、そういうプランニングができれば地域住民の参加も得られるでしょうし、公有地化にもつながっていく。地域住民が主体となって、どう利用していきたいのかを明確にしていく、これができれば良い方向が出てくると思っています。

司 会  ありがとうございました。ここで、会場のみなさんからご意見があったらお願いしたいと思います。 

中村(伊)会員の中村です。私は伊奈石の会に入ってから横沢入を知りました。こんな     に自然が良く守られていて、いろんな生物がいたり良い環境が残っていることを非常に有り難いと思います。今日もいろいろな話を聞きまして、とにかくこの横沢入の自然の恵みを心の恵みとして保存していき、これからの子供たちが人間のありかたを考えていくための本当に大切な財産だと思います。

島 田  今日は飛び入りでございまして、伊奈石の会で一緒に見学などさせていただ     いたんですが、会員ではありません。元々は私は農業技術の方で、日本にいるより外に出ていって農業指導をやっていた人間なんですが、その面から横沢入で感じるのは、あの谷地田なんです。今私たちの関係者がアフリカで谷地田の開発をやろうとしているんですけれども、あれは素晴らしい谷地田だと思うんです。あの水温の高さ。土地の人が素晴らしい技術を持っておられるけれども、それをどう生かしていくのか。私の見た限りにおいては伝承されていないように思うんです。まず記録だろうと思いますし、実践だろうと思いますが、実践と言っても容易ではない。米の余った今の日本ですから。だけれども、これは全く無責任な発言ですけれども、原始米ですね。赤米だとか黒米だとか。あるいは低温地帯でも作りやすい特殊な稲だとか。自然環境の中での病虫害の問題ですとか難しい問題はあると思うんですけれども谷地田開発というものを試みる必要があるんじゃないか、と考えています。


司 会  今お話いただいた島田さんは、今、発展途上国への技術援助が盛んに行われ     ていますけれども、そのはしりのような方で、インドやネパールで何十年も前から活躍されている方です。ありがとうございました。他にありますでしょうか。


唐 澤  私が横沢入に関わったそもそもの発端は、五日市に引っ越してきてから子供     が生まれまして、たまたま保育園が悲願寺の増戸保育園でして、通っていた道から逸れた散歩コースが横沢入でした。そのころまだ田圃もだいぶやっていまして、本道からチョッと入るといきなりぜんぜん別の空間に入ったという感じで、ちょうどタイムスリップしたような感じの場所でした。そんな特徴を生かして、そんな感覚を残した形での保全の仕方ができないものだろうか、と思うんですね。

 山林について言えば、戦後雑木を切ってしまった後に植林をしてますから杉・桧が多いですけれども横沢入はまだまだ雑木が多い方です。原始の森ではなくて人の手が加わった形でのコナラやクヌギなどの二次林の形。そして田圃については谷戸田と言うことであれば、人が長年かかって維持してきた形態ですから、それなりに手がかかるわけですね。じゃあそれを誰がどうやってやるのか、そこが非常に難しい所だと思うんです。で、JRの土地利用検討委員会(1995年)の中で「残すと言うならどのように残すのか?費用はいくらかかるのか?算出してみろ」ということになりまして第二部会で検討していったんですが、ボランティアの形での人的な費用、それから土地については公的なものになっていった方がベターだろう、建物についてはビジターセンターのような物を作る形が良いのか休み処を真ん中に作るのが良いのか、横沢入は過去人家が一つも無くて立ち入る人も農作業や林業のために入るだけでそこから出る排出物も自然に戻ってしまうものしか出なかった、それによって美しい自然が残されてきたわけですから、多くの人が入り込むような形にしてしまって良いのかどうか、という議論も出たわけです。で、費用に関しては人を呼んである程度のペイをしてもらう・金を落としてもらう形、儲かる必要は無いですけれども維持管理に必要な費用くらいは出してもらえないだろうか、なんていうギリギリのところで案を出してみたんですが、運動の内部にも様々な意見がありまして、極端に言えば放っておいて自然のままにしてしまえと言う人もいます。しかし、我々としては人と自然が上手く折り合いをつけて横沢入の景観ができてきたのだからそういうコンセプトがいいんじゃないか、ということで案を作ってみたんです。 (伊奈石の会会誌第2号所収の参考資料「里山環境保全構想検討報告書」参照)  

 で、開発に反対しているうちは良かったんですけれど、実際残されることになってこれからどう保全を実現していくか、となると非常にきついことですよね。今いる地権者のみなさんにしてもここから農作物や林の木を売って生産をして経営をできているわけじゃないですから。そういう意味で日本の農業や林業が抱えている問題と全く同じことがここでも問題になってくるのかな、と思っているんです。


岩 田  質問ですが、85%土地を持っているJR東日本が他の開発業者に切り売りす     るなんていうことはないんですかね。そういうことになるといくらここで議論をしても意味が無くなってしまうんじゃないか、と心配してるんですが。

田 中  会社の内部には、いつまでも審議会を作ってウダウダ議論をするようなやり方をしてないで早いとこ売っちゃった方がいい、という考えもあるということはいろいろな所から聞こえて来ています。いずれにしても微妙な時期なんですけれども、JR東日本の今の担当者の方たちは横沢入が私たちが望むような良い形で活用されていくということについては非常に理解があり、努力をされているという印象を持っています。

中 野  地元の増戸小学校をはじめ、小学校の総合科のカリキュラムの中に横沢入で     の体験を組み入れている小学校が増えていまして、最近も小平市の第三小学校の 5年生の生徒さん74名が来まして自然観察を含めて泥だらけになって遊んでいきました。これは私たちムササビの会に照会があったケースでして、私たちの知らないところで同様に利用している学校もあると思います。新しい教科である総合学習については、どう取り組むかという点で各学校の先生方は非常に苦労されていまして、いろいろ事例は出てきていますけれども、まだまだ研究中というところのようです。

 横沢入を学校教材として、と言うと語弊がありますけれど、もっともっと活用されていくんじゃないか。実は今の子供たちはお米を知らない。食べることは知ってますけどどういう植物かは知らない。我々日本人は、と言ってナショナリズムをかき立てるつもりはないですけれども、稲作を中心にした文化ですね。そういう文化をめぐって我々の世代と次の世代に共通の記憶が無くなりつつある。我々が育った頃の環境は今の子供たちには無いですね。だから話が合わないわけですよ。日本人に受け継がれてきた風土・文化というものがこの数十年の間に急速に失われつつある。これをずっと未来に引き継いでいく必要があるだろうと。そのための横沢入はかっこうの場所である思います。これを子供たちのために残していくような仕組みを作っていきたい。あの場所は1700年代から1940年くらいまで完全に田圃であったわけですから、それに近い状態に戻したい。そして子供たちに見せたいというのが私の夢です。


司 会  ありがとうございました。時間が大幅に超過していますのでこれで終わりた     いと思います。今日は、 9月26日にあきる野市が横沢入の開発を断念するという発表をし、今後横沢入をどうしようかということをめぐって、これだけの人たちに真摯に議論していただいたということは非常に意義があることだろうと思います。今日の議論はきちんと記録を取りましてあきる野市をはじめとする関係機関に提言をしていきたいと思っています。また、中野さんの方から出された、市が主導する形での今後の検討委員会についてもより内実のある、より多くの市民の声を反映するものになるように我々も頑張っていきたいと思います。本日はたいへん長い時間になりましたが、どうもありがとうございました。                         
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