観察会についてちょっと考えたこと

著者:草刈 智のぶ


 「横沢入に行こうか?」と上の子に言うと、「「春を探そう」っていって歩くのはいやだな。」との返事。
「え?」とどきっとした私。

 3月のある日、私たちは観察会に参加していた。
 「横沢入の春を探すんだよ。どんな春があるのかな?」
 この問いかけはきっと子どもの興味をひくに違いないと思っていた。ちょっと肌寒かったけれど約一時間、みんなで歩いてみた。発見はあった。「もう来ない」とは言わない息子達にほっとしていた。


 でも、4月のある日、冒頭に書いたような反応があった。その日は結局学校の友達や横沢入で知り合った人などにたくさん会って、自由に遊んだ。弓を作ったり、田んぼの中に入ったり、ダムづくりをしたり。どれも子どもたちが自分から考えて、遊んだことだった。「もう、帰るよ」と何回呼んでも、「もう少し、もう少し。」と時間を延長されてしまう。


 観察会は何なのかな?そんな疑問がわき上がってきた。大人が用意したものではなく、子どもが自分たちで自然を楽しむことなのかもしれない。そんな考えが浮かんできた。特に横沢入の豊かな自然の中ならば、そこにあるものが全て教材ということだろう。大人のする事は子どもたちの要求に答えられる部分は答えると言うことかも知れない。


 そして、けがの手当と食物の準備。考えてみると、私は小学校の頃大人と一緒に野外で遊んだ経験などない。子どもの集団で勝手に遊び、家路に着いた。時には遠くまで遠征もあり、自転車に乗る練習もそこでやっていた。大人との接点などなかった。自然と子どもの集団があれば自由な世界で子どもは生活できるのだろう。私の家は農家だった。


 田植えや稲刈りの時期は子どもも労働の手伝いをした。その経験が大変に貴重だったと今になって思う。さらに、私の親が「その経験は子どもにとってなくてはならないとは思ってはいなかった。」という事実も重要だ。「子どもは育つ」が「どこをどう準備して育てるか」には答えがない。親がこれこそはと思って重点的に教育しても、それが期待したほどのよい結果を生まない場合が多い。


 私も自然の中でどう子どもを育てるかについて、ひとつの失敗をしてすこし考えるヒントを子どもからもらった。ありがたい経験である。


back